テレビを点けたら

ザーッ

ってなってました。(このエッセイを書いたのは2011年8月です。)



アナログ放送が終了したのは本当のようです。

別に困らないので、とりあえずこのままにしておきましょう、、、、



ドコモからも、再々、「movaが来年の3月で使えなくなるので早く切り替えてください!」という脅しのような案内が、電話機種のパンフレットを添えて送 られてきます。いちおう、その写真をぼーっと眺めてみたりするものの、けっきょくは検討するに至らず、置いてしまいます。、、、、私にとってはほとんど関 心がないケータイの、細かな違いを比較するなんて面倒なことこの上ないのです。携帯電話を持ったのは1997年の2月ですが(じつに14年にもな る?!)、そのときに買った固体をそのまま今も持っています。べつに、ちゃんと使用できているのでなにも問題はありません。私は、外出先で、電話をかけた いときに繋がりさえすればそれでよいのです。

私の事情はどうあれ、ドコモは、「大変申し訳ございません。手前どもの勝手で電波が使えなくなります。ご面倒でお手数をおかけしますが、どれでもお好きな 機種をお使い頂いてけっこうですから、我が社との電話サービス契約をご継続願えませんか。」と言うべきなんじゃないのか?と、私は思います。使用中の人が いるのに、勝手に電波シャットダウンを決行しようとしておきながら、まだその上、商品を買わせようとするその商魂はどういうモラルに基づくものなのか?  いや、モラルなどもちろん、もともとないのです。


テレビのデジタル放送移行にしても、なぜ、この国の国民は、「あ、そうですか。ハイ、わかりました! では、デジタルテレビかチューナーを買えばいいんで すね?」と、あまりにも従順に従ってしまうのでしょうか? システムが時代とともに変化し、移行していくのはしかたのないこととはいえ、抵抗勢力の姿はほ とんど見えません。

すくなくとも私の知っているヨーロッパの国の人々の、とくに独居老人なんかだと、こういう事態にはかならず牙を剥くと思います。「生活におけるささやかな 楽しみさえ、どこにも行けず部屋にいるしかない老人から奪うのか? 細々と年金暮らしをしているのに新たな出費をさせるのか!」などと大抗議をして、業界 に文句を言うような気がします。彼らは、自分たちが長い年月、大切にしてきた暮らしぶりや習慣に愛着があるし、それを踏みにじられることに怒り、抵抗をす るように思うのです。ヨーロッパの年寄りは「誰が国を今まで支えてきたのか考えてみよ」という基本姿勢があって強いのですが、日本の老人はおとなしいです ね。


日本という国は、内実は、ものすごく独裁的な国家で、人々はひじょうに従順です。それが、将軍や大統領や国王のような分かりやすい政治体制ではないだけ で、経済至上主義にて発生する商品というかたちに変貌すると、人々は消費行動に関してはほとんど無防備で誘導にはまりやすいのです。「デジタルですよ~」  と一声かけるだけで、み~んな、おとなし~く、デジタルにチェンジ!です。誰も文句は言いません。というより、文句を言えると思っていないのかもしれま せんが。エコポイントだってそうじゃありませんか。なんだかんだ言っても、経済業界は、ようするに電化製品を売りたいだけじゃないですか。新しい製品のほ うが消費電力は少ないにしても、廃棄処分のコストや生産に使った資源の費用は計算に入っているのかと私は尋ねたい。エコなんて大義名分でしょう。車購入の 補助金(税金から出したわけだからつまり国民が払ってる)が終わって、エコポイントが終わって、ついにデジタルも終わっちゃったから、さて、次のしかけは 何にする? て、お偉いさん方は相談してますわよ。日本って、国民を騙してなんぼ、の国なんですね。なんて、操りやすい民族なんでしょう。 戦後はとくに、圧倒的にその気質を利用し利用され、この国は金を生み、経済的には発展してきたと言えるのだから自分の尻尾を自分で掴んでぐるぐるぐるぐる 回る自主トレの体力づくりくらいには意味があったのかもしれませんが、そのように物品を生産し、人々にモノを買わせるように仕向け、そのサイクルを促進さ せながら一方で捨て去ってしまったもの、、、。その損失こそが、今になってみると日本人にとっての巨大な精神的欠損を生じさせたような気がします。なぜな ら、そのような日本型循環経済社会に組み込まれていない人間は「存在しないも同然」になっているからです。


個人の、最小基準の生活を保障する、ということに対する認識やシステム(政治も倫理も)は、日本にはちゃんとある、というのは見せかけだけで、じつは無 い、と私は思うのです。

たとえば、これは分かりやすい例だと思うので取り上げますが、

私は先の南米旅行に出かけるさい、現地で何度か電話をしなければならないことがあったので、さすがに携帯電話を切り替えて持って行くべきか、、、、と思案 していました。しかし出発前になぜかとても店が忙しかったこともあり、そんなことにかまけている時間もなく、けっきょくは何も持たずに行ってしまったので す。

どうなるかな?と思っていた電話事情ですが、私の不便にはちゃんと手立てがあったので感心しました。

なぜなら、「電話コーナー」が大きなショッピングセンターや街の中心部には存在していたのです。これはコインやカードを入れて使うような公衆電話ではあり ません。受付係の人が在中している電話局の出張所みたいなもので、10くらい存在する電話の「4番を使って」などと指示され、そのブースに入り、好きに電 話をして終わると「いくらです」と請求されて払います。これだと、相手が携帯だろうが国外だろうがコインがどんどん落ちて行って「切れるのでは?」という ような不安に駆られることもなく、落ち着いて話すことができるのです。こういうシステムは、たぶんどの国にも昔はあったはずのもので、私の記憶にも、23 年前に住んでいたイタリアの町にはそれがありました。

私はたまたま、今どきの日本人であるにもかかわらず(笑)携帯電話も持っていない旅行者なので「じつに便利だ~っ!」と使いましたが、きっと、現在の南米 諸国にはまだ電話線すら自宅に引けない貧しい人がたくさんいるわけで、実情としては、その人々のために残されているシステムなのです。

私は、このようなことを社会が容認し、抱えたまま機能している、ということが非常に大切だな、と思いました。経済的に発展するのは、それはそれでよし。生 活が便利になるのもそれはそれでよし。だけれども、それに組み込まれない人もかならず存在している、という認識。その認識があれば、社会制度上に、最小基 準の生活を営めるシステムは存続させておかねばならないという必然ができます。ある人が路上で果物を売るような小さな商いしかできなくても、とにかく、自 分で稼いで自分の生命や暮らしを維持できるギリギリのシステムがあること。それがあれば、低所得者もそれなりにどうにか生きようと努力し、じじつ、生きて いけるのです。そういう社会を国全体として保持していくこと。これこそが、個人の、最小基準の生活を保障するということなのではないでしょうか?

日本では、街頭のモノ売りはほとんどなく、日常的に見える範囲に極貧の人間はいません。しかしネットカフェで朝を待ち、派遣仕事を探す極貧の人は存在して います。彼らはどうして、どこか農家さんのところでB級野菜でも分けてもらって街頭で売ってみようとしないのでしょうか? 要するに、小さな経済で身軽に 生きることをこの国は許しておらず、もともと念頭にないからなのです。お金がない人間は日本の社会では生きる価値がない、と言っているのと同じで、弱者切 捨てという言葉は、日本にこそ当てはまります。生活保護という名目で、お金をいくばくか与えたらそれで役目は果たしているじゃやないか、という政府のやり 方は、じつに横柄です。「これだけあったら足りるでしょう?」と、人の人生を計り、強制しているのです。この国は経済発展をしながら、個人の生き方の自由 を踏み潰し、人々の尊厳を貶めてきたといえます。その結果、人々はお金というものに翻弄され、目先の自己保全が第一義になってしまいました。経済主義的独 裁国家に降ってきた自然災害と人災。はたしてこれを契機に日本の人々はベクトルを修正するのでしょうか?