さざれ石




地元に残る伝承は大切にしていかなければと思います。この京都市右京区に存在するさざれ石から北に数百メートルの地点で銅鐸が出土しており、ここはかつてひじょうに重要な場所であったと考えています。全国各地にさざれ石が設置されていますが、私たち地元民はこのさざれ石が最も歴史的に正統なものであると思っております。視察されたい方いらっしゃいましたらご相談下さい。ご案内いたします。現地は京都市の管轄になっており許可なく勝手には入れません。最寄のバス停など参考のため下記に。

以下は、2021年10月に出版しました田井茂実さんの論考です。京都市右京区の「さざれ石」とその麓からはじまる千代の古道について。全文は載せておりませんし、資料図版なども掲載できていません(出版物にしか許可がないため)。ご興味持っていただけましたら、切手代は頂戴したいですが冊子は無料でお送りいたしますのでご連絡ください。
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  君が代発祥の地
 右京のさざれ石と千代の古道  論考: 田井茂実

 国歌、君が代に取り上げられたさざれ石は京都市右京区の山中にある。少なくとも地元ではそのように言い伝えられており、この山は「さざれ石山」「入亀山」などと呼ばれてきた。五十年ほど前までは観光案内ガイドブックにも取り上げられていたが、現在は京都市の都市計画局風致保全課の管理下にあり、登山口は施錠されて訪れる人も滅多になくひっそりと存在している。現在「国歌君が代のさざれ石」を名乗る石は全国各地にあるが、本家本元はこの右京区にあるさざれ石である。

 また、「千代の古道」と呼ばれている道がこの山のふもとに存在する。京都西ロータリークラブが一九八〇年に設置した道標も十基ばかり確認することができる。

 「千代の古道」は昔から多くの和歌に詠まれてきた道で、御所から嵯峨院のあった大覚寺の場所に至る東西の道ではないか、などと言われてきた。

 しかし、あれこれ調べてみると奈良時代末には南北の祈りの道であったものが、時代が下るにつれて本来の意味が忘れられていき、東西の道と思われるようになったことが明らかになった。以下、検証してみたい。

「千代の古道」の「千代」は「千代に八千代に」の歌詞と関係がある、と明治生まれの古老(京都市右京区嵯峨広沢池下町の池内玉治氏)は言っていた(聞き取りは昭和四十年代)。すぐ近くの広沢の池の後ろ一帯の山「朝原山」のことも古老は「あさはらやま」とは呼ばず「ちよはらやま」あるいは「ちょうはらやま」と呼んでいた。そして、確かにこのようにも言っていた。

 「千代の古道は東西やないで。南北や。」

 『京都府地誌・葛野郡村誌二』(明治初年)には「山城国葛野郡中野村 山 三尾山 千代ノ礫石ト称スル岩石アリ」とある。君が代のさざれ石は、明治以前は「千代のさざれ石」と呼ばれていたのである。

 ということは、誰かが「千代の古道」を通って「千代のさざれ石」までやって来ていたということではないか? 一体何のために?

 そもそも、「入亀山」という名前であるが、この山は「出亀山」と一対の名前である。今は亀山公園で知られる嵐山の近くの「亀山」が昔は出亀山と呼ばれていた。亀が入る山と亀が出ていく山ということになるのだが、もちろん普通の亀ではない。例えば三重県に亀山という所があるが、ここはもともと神山と呼ばれていた。神の出入り口の山が入亀山と出亀山だということになる。そしてその間に千代原山(朝原山)が連なり、奥に愛宕山がそびえる、という位置関係である。そうして古代、これらの山ふところに蟠踞したのは秦氏だった。秦都理が大宝元年(七〇一)に創建した松尾大社の神様の乗り物も亀だった。古代の秦氏にとってみれば、自分達の住むこの地域の守り神の入り口にあたる大切な山が入亀山だったのである。

 その入亀山のふもとを通る「千代の古道」は南北に数百メートル通っている。

 千代の古道は、現在では入亀山のふもとからいったん途切れるが、一キロメートルほど南にも、そう呼ばれる道は存在している。また付近には「嵯峨野千代ノ道町」という町名や「千代ノ道古墳」や「千代の道橋」がある。これらには「古」の字はつかない。現在では住宅地の中を通る細い道であるが、嵯峨野高田町を抜けて梅津の方まで、古老の言葉通りに南北に辿れる。高田町は古代には高田郷といい、平安時代初期の売券が数通残り、秦姓の住人が多かったというところである(『史料京都の歴史?右京区嵯峨野村』)。高田町出身の水本氏は「自分の先祖はもとは大和高田に住んでいたけれど、こちらに引っ越してきたそうな…。それで高田というんやて。」という話を伝承しておられる(令和三年聞き取り)。大和高田にも秦氏の痕跡は多く残るので、奈良時代末までに秦氏の集団移住があったのかもしれない。

 梅津地区から桂川を渡ってその先、南北に走る物集女街道と東西に走る国道九号線が交わる交差点は「千代原口」である。江戸時代の地図ではそのあたりは「朝原」あるいは「千代原」と書かれている。現在も桂千代原町という地名が残っている。ここも、旧家が残る所で、高田町の旧家と同じ苗字の居住者がいる。もう少し南下すると千代櫻天満宮という神社がある。小さいお宮だが、その昔は天の神様を祀っていた天神社だったかもしれない。もともと「天神」は雷雨の神、農耕神で、菅原道真が祀られる前からあちこちで祀られていたからだ。

 千代の古道が、さざれ石から南にたどった先に点々とある「千代」のつく場所沿いにあるとすれば、この道はそもそもどこからどこまで続く道であったのか? 道の両端はどこなのか? 地図上に点をとると、みごとな一直線の南北の道ができた。しかも、長岡宮の西の方を通る。このあたりには七八四 年からしばらく桓武天皇がお住まいだった「西宮」があったはずである。延暦八年(七八九)二月二十七日に、新宮殿ができたので天皇が西宮から東宮に引っ越された、と『続日本紀』に書かれている。

千代の古道は南北だった

●雍州府志・巻九 天和二年〜貞享三年(一六八二〜一六八六)

 帯取池 鳴瀑の西、千代の旧道の東北に在り。 千代古道 帯取池の西南に在り。これすなはち京より上嵯峨に赴く所にしてこの道を上道と称す。北に傍ひて行く所なり。 藤原定家卿 千代の古道跡とめて、の詠歌は人の遍く識るところなり。 廣澤池 千代の旧道の西に在り。

●名所都鳥巻第一 元禄三年(一六九〇)…道の部「千代の古道 帯取池の西南に有。」 千代の古道が帯取池の西南にあると書かれている。帯取池はすでに埋め立てられてなくなったが「すり鉢池」のことで、千代の古道がもし東西の道だとすると、西南にあるという書きぶり自体がおかしなことになる。南北の道だからこそ、帯取池の西南という位置関係が成立する。

●名所都鳥巻第三 元禄三年(一六九〇)…池の部
 「廣澤池 鳴瀧山の麓。千代の奮道の西に有。帯取池 鳴滝の西。千代舊道の東北に有。」

●京城勝覧 宝永三年(一七〇六)…「廣澤の池のはた頗る景よし。月の名所なり。是より小坂をこゆる。此間南の山小高き所に大きなる岩有。さざれ石といふ。同じ方に大どう法師が足がた池有 数町東に帯取池と云小池あり。いづれも名所なり。是より鳴たき村に出て歸るなり。」
 貝原益軒の紀行文。貝原益軒もさざれ石のことを「名所」と認識していたことがわかる。これらの記載も、千代の古道が南北であったことの証拠である。

 さて、「千代の道」はいつから「千代の古道」になったのだろう? また、歌において千代の古道と同時に詠まれることの多いさざれ石に託される意味とは? いくつか抜粋して考えてみたい。

 さざれ石に 苔のむすまで座(いま)せしと 君をぞ祝う 今も昔も  (拾玉集 巻一)慈鎮

 さざれ石の 巌とならん苔の上に 松もふりてや 君に逢ひみん (道助法親王家五十首 雑歌) 道助法親王

 慈鎮は鎌倉時代の初め頃に天台座主だった人。この人は拾玉集巻六の祝五首のはじめにある「君が代は千世にやちよにさざれ石の さざれ石の苔むす岩と成てまた雲かかるまで君そみるべき」という歌も詠んだ。道助法親王は第八代の仁和寺管主。入亀山は仁和寺領に属していたことがある。山の西側に現在でもある印空寺はもともと仁和寺の茶所だった所で、入亀山の西の山越村一帯までが広く仁和寺領だった。さざれ石の巌とならん、という言葉は君が代の歌詞とよく似ている。

 君が代の歌詞のように、おめでたいことがあったり、末長かれと祈ったりする時、石で祈る例として次のようなものがあげられる。

さざれ石の 山となるまで なりつめば 君がよわひの 数も知られず
君が代の 数をかぞへて とりつまむ ためしなりけり さざれいしの山 (能宣集)大中臣能宣

 ここでは、さざれ石の山で小さな小石を数えながら積み上げて長寿を祈る例があげられている。昔は多くの人がさざれ石山に登り、さざれ石の周囲でそんなことがなされていたのだろうか。

 三十六歌仙の一人である能宣(九二一〜九九一)は後撰和歌集の選者だが、もともと神祇官を代々務める家の出である。延暦三年(七八四)五月十六日に小黒麻呂や種継と共に長岡の地を視察に行った参議・神祇伯・従四位上大中臣子老(こおゆ)は一族である。遷都のための視察にはほかにも何人か出かけているが、もしここで新都の中軸線を北へ辿るコースを唐人達とともにとっていたら大中臣子老も千代のさざれ石に遭遇したであろう。大中臣能宣にとって、大中臣子老は偉大な一族の先人である。桓武天皇の命を受けての目的地、長岡京の玄武=さざれ石の言い伝えが代々神祇官を務める家に伝わっていたのではないだろうか。

 妹が名は 千代に流れむ 姫島の 小松がうれに 苔むすまでに (万葉集 二二八)河辺宮人

 万葉集が編纂される以前から、長い年月を表すのに、千代と苔むすという言葉がセットで使われていたということがわかる。

 わがきみは 千代にましませ さざれ石の いわほとなりて 苔のむすまで (古今和歌集 三四三) よみ人知らず

この歌が和漢朗詠集ではなぜか「わがきみ」ではなく「君が代」になり、流布本の古今集と混同されて国歌君が代の歌詞になった。「千代にましませ」が「千代に八千代に」となっているのは俊成本以後のことであるそうだ。(『君が代の歴史』山田孝雄)

 時鳥 鳴く声聞けば 歌主と 共に千代にと 我も聞きたり (日本後記) 嵯峨天皇御製

 この歌は藤原朝臣園人がまず「今日の日の 池のほとりに時鳥 平安(たいら)は千代にと啼くは聞きつや」と歌で問いかけたことに対しての返歌。弘仁四年(八一三)

  「チヨ」という響きを鳥のさえずりと合わせてとらえている。藤原朝臣園人は桓武天皇の父、光仁天皇の時代から天皇家に仕えており、各時代の政変や天変地異を見続けてきた人である。何の下地もなしにいきなり嵯峨天皇に対して、「平安は千代に」などとは問いかけない。嵯峨天皇やその父桓武天皇の心からの平和への祈りを知るからこそ、平安京が千代に続くようにと遷都後の穏やかな環境の中でしみじみと詠んだのである。千代という言葉自体は彼らにとって既に身近だったことがうかがえる。千代の道や千代のさざれ石という呼び方も、嵯峨天皇のころには既にあったと考えるべきだろう。

 飛鳥時代から万代・千代に続くようにと寿ぐ言い方があったが、これは中国でも漢書や文選にあり、遣隋使・遣唐使が持ち帰った本が広く読まれるようになり、我が国でもよく使われるようになったのだろう。

和歌の解釈による千代の道南北説の検証

「千代の道」が「千代の古道」に変化するにはそれなりの時間の経過が必要である。道ができた時から、あるいは誰かがそこを通ったその時から「千代の古道」と呼ばれるはずはない。「千代の古道」という言葉が詠みこまれた古い和歌では、在原行平(八一八〜八九三)、後鳥羽院(一一八〇〜一二三九)、藤原定家(一一六二〜一二四一)のものがよく知られる。後者二人の場合は平安遷都からは四〇〇年近く経っているので、もし嵯峨天皇のことを詠んだとしても充分「古道」といえるだろう。

 しかし、行平の場合は違う。彼にとっては嵯峨天皇(七八六〜八四二)の通った道は自分も通っている道である。

 「嵯峨の山 御幸絶えにし 芹川の 千代の古道 跡はありけり」

という「千代の古道」関連のおおもとの歌を彼が詠んだのは光孝天皇在位期間である八八四年から八八七年のたった四年間のどこかである。この歌に詠まれた御幸がだれの御幸だったのかは書かれていない。定説ではこれを嵯峨天皇の御幸ととらえているが、入亀山の近くを行きかっていたのは嵯峨天皇だけではなかった。光孝天皇が嵯峨天皇をイメージして嵯峨の山ふところに御幸したとしても、行平のこの歌の御幸は嵯峨天皇の御幸ではないかもしれない。

 『日本後記』には「延暦十五年(七九六)十一月二日、桓武天皇北野遊猟」とある。その後もたびたび北野に猟に出た桓武天皇は、神野親王(のちの嵯峨天皇)の山荘にも立ち寄っておられる。これらは、平安京時代の桓武天皇の御幸である。山荘は嵯峨天皇即位後、離宮・嵯峨院と称され、嵯峨天皇は八二三年の譲位後は、冷泉院やこの地に住まれ八四二年にこの世を去るまで二十年間この地を愛して過ごされた。光孝天皇は八三〇年生まれなので、嵯峨天皇とは十三年間同時代を生きておられた。行平と嵯峨天皇は二十五年間、四半世紀も同時代を生きていたのである。

 行平は自分が通っている、あるいはよく知っているなじみの道をわざわざ「古道」とは言うまい。嵯峨天皇のことも当然よく知っているから、嵯峨天皇の御幸に関して、もし歌に詠みこむのなら「千代の古道」ではなく「千代の道」と五文字で扱っただろう。それなのに「千代の古道跡はありけり」である。

行平にとっての「千代の古道」は平安遷都より古い桓武天皇の御幸に伴う道だと考えた方が自然なのではないだろうか。

 また、山州名跡志等にあるように嵯峨の山=嵯峨天皇と解釈していいのだろうか。後撰和歌集にはそんなことは記載されていない。詞書には、「仁和の帝、嵯峨の御時の例にて芹川に行幸し給ひける日」とあるだけだ。光孝天皇が嵯峨天皇のときのように芹川に出かけられた日というのは理解できるが、嵯峨天皇のことを「嵯峨の山」などとは失礼ではないのか。行平にとって桓武天皇は父方の曽祖父(父は阿保親王で祖父は平城天皇。平城天皇は桓武天皇の息子)。桓武天皇がこの世を去ってから十二年後に生まれた行平は、偉大な曾祖父桓武天皇のことを聞かされて育ったはずである。御幸絶えにし、は先にも述べたが桓武帝の御幸がなくなって久しいと受け取れるだろう。

 嵯峨の山は嵯峨天皇のことではなく、字の通り入亀山や梅ケ畑祭祀遺跡のある聖なる嵯峨の山のことと考えられる。芹川は今は暗渠になってしまったさざれ石の横を流れる川のことだが、その付近で「千代の古道」と言われた道を見つけ、これを詠んだのだろう。もし千代の古道が東西だとすると、行平は詠みたい道の上を進みながら、あるいは千代の古道と平行に進みつつ詠んだことになり、不自然極まりない。「千代の古道跡はありけり」というからには、千代の古道の上を辿りながらではなく、出発地点が御所だったにせよ、仁和寺のあたり(光孝天皇は仁和の帝と呼ばれていた)だったにせよ、「通りすがりに跡を見つけた」と詠んだとみるのが妥当だろう。この時点で千代の道はとぎれとぎれしか残っていなかったにちがいない。現存して使用中の長い道なら跡を見つけるとはおかしなことで、歌になどそもそも詠まないはずだ。行平は東西の道を御所か仁和寺かどちらかから西へと進んで来て、途中で南北の千代の古道と交差して詠んだにちがいない。偉大な曾祖父、桓武天皇が「平安は千代に」と祈った道なのだから。

 嵯峨野は元慶六年(八八二)以降禁野(天皇の猟場)となって以降の呼び方であり、これ以前は「北野」と呼ばれていた。長岡京から見て北野だからである。現在北野といわれる北野天満宮のある場所も平安京の大極殿から見て北なのである。おそらく桓武天皇の時代は長岡京から真北になるから北野であり、そこは南から順に現在の地名でいうところの千代櫻神社・千代原町・千代原口・千代ノ道古墳・千代ノ道町・千代のさざれ石・千代原山と続く道だったのだろう。桓武天皇の御座所から、北の守り神、玄武がおわします、あるいは北辰・昊天上帝がおわします山へと一直線にめざす祈りの道だったのだろう。

 これらの地、この線上には当時、秦氏がたくさん住んでいた。
 さて、ここで仮説を立て、想像をたくましくしてみる。

 長岡京造営時、桓武天皇が郊天祭祀の一環として長岡京の真北であるさざれ石付近でお祀りをしたのではないか。そして、秦氏一族、とりわけこの南北の線上に奈良時代から住んでいた「朝原(千代原)忌寸」と改姓した秦氏の一族らがそれを援助したのではないか。

 飛鳥時代にすでに東西南北を守る四神の考え方は入ってきていた。高松塚やキトラ古墳などを見れば一目瞭然である。『続日本紀』の大宝元年(七〇一)の春正月一日の記載で四神の幡を大極殿の正門の所に立てて儀式を行ったことがわかる。都城においても、こういった考えをもとにして遷都していたはずである。元明天皇の和銅元年(七〇八)二月十五日の記載には、平城京は四神が吉相に配され、三つの山が鎮護のはたらきをし、亀甲や筮竹による占いにもかなっているから遷都するということが書かれている。もし、長岡京で玄武をさがすとしたら、まぎれもなく千代のさざれ石ということになるだろう。長岡京から真北に目をやるとなだらかな平野が続く。こここそ古代「葛野」といわれた秦氏の本拠地であり、初めて真北の丘にぶつかるところが入亀山であり、そのさらに北にこの山よりも高くそびえるのが梅ケ畑の山々である。そこには後述する梅ケ畑祭祀遺跡がある。さざれ石そのものはチャートの大きな岩の塊でたくさんの亀裂が入り、表面が風化して、細かい石が固まってできた岩のように見える。さざれ石を見れば、君が代の歌詞はすんなり納得できるだろう。

 さざれ石は約二億五千万年前に南の海で積もった放散虫の化石、チャート。入亀山のさざれ石はもともとは秦氏が祀った磐座のひとつだったのではないか? 秦氏創建の松尾大社の磐座も、伏見稲荷大社の磐座も同じチャートである。後述する梅ケ畑祭祀遺跡にも磐座のような石が露出していたという。さらに、平安京の玄武と言われる船岡山の磐座も同じチャートである。玄武はまさしく蛇と亀。入亀山の名前も長岡京遷都の頃からある古い名前なのではないか。桓武天皇の郊天祭祀の名残りの可能性があると推察する。

桓武天皇の郊天祭祀について

●続日本紀…延暦三年(七八四)五月十六日。「藤原朝臣小黒麻呂・藤原朝臣種継・佐伯宿祢今毛人・紀船守・大中臣子老・坂上苅田麻呂・佐伯宿祢久良麻呂・船連田口等を山背国に遣わせた。乙訓郡長岡村之地に都を遷さんが為なり。」

 高級官僚たちが奈良から長岡村に派遣され、都にふさわしいかどうか見ていたことがうかがえる。メンバーの中には秦氏にゆかりのある人がいる。小黒麻呂の妻は秦下島麻呂の娘。秦下島麻呂は聖徳太子の家来で、広隆寺を建てた秦河勝の曾孫。小黒麻呂の息子の名前は葛野麻呂なので、母親の住んでいた葛野で生まれたのだろうと言われている。種継の母は長安生まれの唐語教師兼通訳、秦朝元の娘なので、種継自身は秦朝元の孫にあたる。秦氏は自分達の本拠地に都をいざなったともいえるだろう。

 郊天祭祀真南の地、交野については文献が残るので研究も多くなされてきた。桓武天皇は延暦二年(七八三)十月十四日初めて交野に行幸して遊猟して以降、延暦二十一年の十月まで十三回にわたり交野を訪れている。交野の地は百済王氏の本拠地で、当時の文化の最先端を感じることのできるサロン的な場所ではなかったかといわれている。渡来人の流れをくむ高野新笠を母に持つ桓武天皇にとってはおそらく大変居心地のいい場所だったにちがいない。 翌年十二月六日は畿内七道に使いを派遣して天神地祇 に奉幣した、とある。十二月十八日は山背国葛野郡の人、秦忌寸足長が宮城を築いて従五位上を授けられている。延暦四年(七八五)十一月十日には、「天神を交野の柏原に祀る。」とある。この天神とは桓武天皇に天命を与える最高の神様のこと。その二年後にも「天神を交野に祀る」(延暦六年十一月)とあり、ここでも桓武天皇が長岡京の南で郊天祭祀を執り行ったことが分かる。どちらも冬至の日にあたる。

 ただ、天の神を冬至の日に南に祀るだけでなく、地の神を夏至の日に北に祀ることも唐ではおこなわれていたので、桓武天皇がこの儀礼を片方だけしか知らなかったとみるのは不自然である。文献に記載は残っていないが、続日本紀を注意して読めば、六月二日に、唐人晏子欽・徐公卿等に「榮山忌寸」という姓、六月十四日は唐人孟慧芝・張道光等に「嵩山忌寸」という姓、吾税児には「永國忌寸」という姓が与えられている。この時期、諸国に材木や正税を課し、急ピッチで造営が推し進められた様子が伺い知れるが、これらの唐人たちが一体何をして評価されたのかが気になるところである。「山」で栄えたり、うやまわれたり、「國」が永らえたりするという姓の文字も興味深い。六月に唐人たちが榮山忌寸・嵩山忌寸・永國忌寸の姓をもらっているというのは彼らが夏至の日、真北の山の地壇で祭祀を行った結果の褒賞ではなかったのか。単に新都のための材木調達ならばその山をよく知る現地の人でよく、わざわざ唐人をそのために六月に派遣することはないだろう。

 ちなみに「榮山忌寸」についていえば、延暦六年(七八七)夏四月一日にも、唐人の王維倩と朱政が同じ姓をもらっており、同年十一月五日には交野で郊天祭祀が行われている。

梅ケ畑祭祀遺跡

 京都市右京区梅ケ畑向ノ地町にあった遺跡。千代のさざれ石の真北、長岡宮から真北に進む千代の古道の延長線上に位置する。ここでは一九九七年五月十六日から発掘調査が行われた。この地で以前に銅鐸が四個出土しており、丘陵掘削工事に伴う立会調査をしたところ土器が多数見つかったことがきっかけである。さざれ石山(入亀山)から北に徒歩十分。真っ直ぐ丘の頂まで登った地点になる。発掘調査の結果は驚くべきもので、土師器・須恵器・緑釉陶器・灰釉陶器・製塩土器・土馬などに加え、和同開珎などの銅銭、丘陵頂部には整地した平坦面、礫をまばらに配した整地層、円形の高まりの中央に一辺七メートルの【方形】の礫敷遺構が見られた。方形はまさしく中国の地壇を真北にまつる時の形、天壇が円形なのと対をなす。

   「この丘陵の頂部を中心として何らかの祭祀が行われ、その時に用いられた土器類が、北東斜面に捨てられたものと考えています。銅銭には、この丘陵を祭祀場として使うにあたって、山の神や地の神に対する地鎮の意味合いが考えられます。遺物の多さから見て、一度限りではなく何度もこの場所で祭祀が行われたと思われます。なお、『日本紀略』や『扶桑略記』などの文献史料に祈雨の記事が見られます。こうした記事から、この遺跡は平安時代前期に陰陽寮によって行われた祈雨の祭場の一つと考えられます。」(現地説明会のパンフレットより)

 その後に出された発掘調査概報によると、コンテナ八十九箱分の遺物の中には「秦」と書かれた墨書土器もあったとのこと。これは、やはりこの地に昔から住んでいた秦氏一族が、ここでの祭祀に一役かっていることの動かぬ証拠と言えるだろう。また、さざれ石と似たような岩の露頭も見られたとのこと。この岩もまた、千代のさざれ石と同様、秦氏にとっての、さらに桓武天皇の勅命を受けた祭祀担当の唐人にとっての大切な磐座だったと推察される。供物の煮炊きもしていたのか炭なども見つかっている。中国では天神地祇に供えたものは焼いて煙をたちのぼらせることで天に届けたり、また埋めることで地に届けたりした。酒でさえ、干し草に注いで燃やすのである。炭の存在はこの場所で燃焼を伴う祭祀をとりおこなっていたことの証拠となる。

聖なるさざれ石の証拠は地名にも

 桂千代原町の近くにある桂艮町・桂坤町・桂巽町・桂乾町はすべて斎王を勤め上げて戻ってこられた朝原内親王の千代原第があった場所を取り巻いており、千代原第から見たそれぞれの方角がそのまま地名となっている。右京区西院でも、同様の例があり、西院乾町・西院坤町などの町名は、昔、淳和院(淳和天皇の隠居所。淳和天皇は桓武天皇の息子)のあった場所から見ての方角を表している。

 木津川の近くの加茂にも艮・坤・巽・乾の字の残る場所がある。環濠集落で中世には小さな城もあった。奈良時代、行基の泉橋院が置かれた所である。行基は本人も行基菩薩と称せられていたが、泉橋院には聖武天皇が滞在しておられたのである。聖なる地と見なされたことによる地名といえよう。

 そこで改めてさざれ石山(入亀山)の南東を見てみよう。丘陵のすぐ下に「山越巽町」。これは千代のさざれ石から見て巽(南東)の方角である。また千代のさざれ石から見て北西に広がる扇状地は「山越乾町」で乾(北西)となる。 時代が下がっても江戸時代まで広く名所と見なされていた事実からも、さざれ石は決してただの石ではない。

 数十年前までこの山の所有者の一人であった、桜博士として知られる佐野藤右衛門氏の話によれば、昔は毎年、正月に山越の青年会の構成員で、さざれ石の一番大きな石にしめ縄を張るのが恒例行事だったという(令和二年聞き取り)。しかし、満州事変以降、戦時体制になって若者が召集されたり訓練所に送られたりして、とてもそれどころではなくなり、しめ縄もはられなくなったということである。つい百年ばかり前まで、地元でもそれは確かに聖なる石と認識されていたのである。

長岡京遷都と秦氏

延暦元年(七八二)閏正月十七日外従五位下朝原忌寸道永が大外記に任じられている。朝原忌寸は宝亀七年(七七六)十二月二十五日、山背国葛野人秦忌寸箕造ら九十七人に氏姓を賜った、と続日本紀の記述にある秦氏の一族で、道永は光仁天皇亡き後、山陵を選びに出かけている。延暦元年(七八二)八月九日のことである。陰陽を解する者という人選だ。

 朝原山は前述のとおり、現在も嵯峨天皇陵のあるあたりから東側の山並みを指す呼称で「あさはらやま」「ちょうはらやま」「ちよはらやま」とも呼ばれている。秦氏の蟠踞したエリアに他ならず、朝原忌寸は秦氏が朝廷に功労者として認められた一つの証拠でもあるのだろう。

 秦氏を母に持つ藤原種継は同じく秦氏を妻に持つ藤原小黒麻呂とともに、桓武天皇の命を受けて山背  国を見に出かけた。延暦三年(七八四)五月十六日のことである。目的は「乙訓郡長岡之地を相せしむ。都を遷さんがためなり」(『続日本紀』)

 そもそも、桓武天皇自身が母の実家(現在の西京区大枝地域)で育ったとしたら長岡の辺りにはなじみがあったはずだが、わざわざ奈良の都にあって秦氏にゆかりのあるこの二人を遣わせているということは、すでに山背国の長岡辺りにはもとから秦氏集団が住んでいたからと思われる。六月十日には種継ら十数人は「造長岡宮使」を任命されている。六月十三日には紀朝臣船守が「賀茂大神社」に遣わされた。遷都の理由を告げるためである。十一月十一日、天皇はいよいよ長岡宮に「移幸」した。十二月十八日「山背国葛野郡人外正八位下秦忌寸足長、宮城を築きて従五位上を授けらる。」。それまで正八位下だったのだから一挙に十一階級も位が上がることになり、異例の特別昇進である。

 次の延暦四年(七八五)五月には山背国の農民への田租を免除する宣旨があり、八月二十三日には「従七位上大秦公忌寸宅守に従五位下を授く。太政官院の垣を築けるを以てなり」。これは従七位上から従五位下に七階級の特進。秦氏の有力者が特別昇進している理由は宮城を築いたり垣を築いたりしたからだとわかる。

桓武天皇の第二皇女朝原内親王

 千代原村(現在の西京区桂千代原町)の言い伝えによると、この人は千代原村で生まれたとされる。『日本後記』延暦十三年十二月二日の記載に朝原内親王の乳母である朝原忌寸大刀自に従五位下が授け られた、とある。「あさはら」ではなく「ちよはら」内親王と呼ぶべきであろうか。延暦元年(七八二)に四歳で斎王になり伊勢に赴き、役目を終えて戻ってきた後は千代原第に住んでいたが、桓武天皇は斎王の仕事をねぎらうために千代原を訪問している。長岡京に住んでいた時に桓武天皇が娘の家に行く道はやはり大極殿から真北に進む千代の道をたどることになり、桓武天皇と「千代原」の深い関わりを感じざるを得ない。

秦氏と「千代」

 亀岡市には「千代川」という地名がある。こちらはこちらで秦氏にまつわる松尾神社などがあり治水の技術にたけた秦氏の一派が住んだと考えられる。大井神社の伝説では月読命と市杵島姫命が亀の背中に乗って大堰川を遡上したものの保津の急流に亀が耐えられなくなりそこから鯉に乗り換えた、という。今でもその地の人々は鯉を神様のおつかいだとしてあがめ、食べもしなければ鯉のぼりをあげることもしない。下流の松尾大社には亀の井があり、この水で酒を造るとおいしくできるという言い伝えがあるが、この亀は鯉に乗り換える前の神様の乗り物なのである。昔は亀岡あたりを桑田郡と言ったが、これもまさしく秦氏が養蚕を進めるにあたって桑をたくさん植えたところからきている名前である。  もう一つ千代のつく地名で秦氏と深い関わりがあるのは、平城京の真南の千代。ここは読みは「ちしろ」だが、やはり秦氏が多数住んでいた。現在の住所は奈良県磯城郡田原本町秦庄。現在でも「秦」の表札をあげる旧家が何軒もある。近くには秦楽寺があり、秦河勝の子孫を名乗る人々が多く住んでいた。 この寺は今でも聖徳太子や秦河勝を祀っており、能の金春屋敷がこの付近だったとも伝え、世阿弥(秦元清)の出身地と言われる所。金春流・観世流のみならず、喜多流や宝生流も、すなわち大和猿楽の四座すべて、この地、寺川筋にルーツを求めることができる。
 秦氏と「千代」はこのように、奈良時代から関わりが深い。

秦氏が担った伝統芸能に見られる君が代の歌詞

 「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」

この歌詞と同じ言葉を神楽で唱える所があちこちにある。

 金印が発見されたことで知られる福岡県の志賀島もその一つ。志賀海神社では山誉種蒔漁猟祭(やまほめたねまきすなどりさい)という祭りが四月十五日と十一月十五日に行われる。ここの神楽は神功皇后が朝鮮半島に出兵したときから伝わるとされ、神功皇后が「志賀島に打ち寄せる波が絶えるまでずっと伝えよ。」と言ったという伝承がある。君が代の歌詞の部分以外には次のように言うとのこと。

 「あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや 志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん香椎路に向かいたるあの吹上の浜 千代に八千代に 今宵夜半につき給ふ御船こそ 誰が御船になりにける あれはや あれこそや 安曇の君の召し給ふ 御船になりけるよ」  安曇の君とは神功皇后に海の潮が満ちる玉と引く玉を渡したとされる安曇磯良のこと。祇園祭の船鉾・大船鉾にも祀られている。

 石清水八幡宮の縁起である八幡愚章訓には「安曇磯良と申し志賀海大明神」という記載があるという。石清水八幡宮の宮司は創建以来阿曇氏がつとめていた。

 奈良の興福寺の延年舞にも、君が代の歌詞がそのまま入った箇所がある。また、猿楽の謡曲「菊慈童」のもととなった菊水という田楽能にも、君が代の歌詞がそのまま歌いこまれている。「春栄」「呉服」「老松」「弓八幡」「養老」にもすべて君が代の歌詞がうたいこまれているそうだ。(『君が代の歴史』山田孝雄)

 延暦十三年(七九四)平安遷都の折、桓武天皇の勅命により、比叡山で平安京の鎮護を祈る根本中堂初度供養という法要が営まれた。この時の記録『根本中堂初度供養事』によれば、秦氏の勤操・護命二名が堂達と散華を務めたとあるほか、楽人六十六人が全員秦氏だと書かれている。桓武天皇の時代すでに秦氏が猿楽などを担っていた証拠である。観世・金春などの先祖はすべて秦河勝。世阿弥は『風姿花伝』の中で自らの名を秦元清と名乗っている。金春禅竹は『明宿衆』の中で、金春家、春日社の勤番をした長谷川党、四天王寺楽人の共通の祖先を秦河勝だとしている。

 これらのことから、君が代の歌詞を全国に流布したのは秦氏であるといえまいか?

君が代の作曲も秦氏の末裔だった

 明治二年、お抱え外国人のジョン・ウイリアム・フェントンが薩摩藩の大山巌元帥に国歌の必要性を説いた。開国したからには、外交上必要だという。それらしい歌詞はないかと尋ねられた大山巌はかね てより自分が愛唱していた薩摩琵琶の歌詞の中から君が代の一節を抜き出して、フェントンに作曲を依頼した。そもそも、薩摩藩主島津家ではこの歌詞を、琵琶に合わせて唄うだけでなく、毎年「書初め」として用いていた。島津家はもとをただせば秦氏である。そうしてできた初代君が代は明治三年から明治九年まで使用されたが、日本語をいっさい知らなかったフェントンの曲は起伏が多く、「さざれ」と「石の」の間で息継ぎが必要になるなど歌いにくく定着しなかった。そのため作曲し直すことになり、お鉢が回ってきたのが四天王寺楽人出身の林廣守、彼こそ正真正銘の秦河勝の子孫である。こうして現在の「君が代」が生まれた。

 もともと右京の地で長岡京遷都の際の祈りをささげた秦氏が、その後の全国への歌詞の流布にもかかわり、千年余りの時の流れを越えて、再び秦氏の子孫がその歌詞に曲をつけたということになる。

千代のさざれ石はなぜ忘れられたのか

 時代が下るにつれて、梅ケ畑祭祀遺跡は本来の意味を失い、完全に人々に忘れ去られた。しかし、入亀山の千代のさざれ石は人里近くにあったために大宮人が来なくなっても平安後期から鎌倉時代以降も歌枕として人々に親しまれ、江戸時代は名所として認識されていた。しかし、だんだんと本来の「聖地」としての記憶は失われてしまった。なぜだろうか?  七八四年、夏至の日。おそらくこの日にここで盛大な祭祀が行われたことであろう。しかし、長岡京そのものが十年で廃された。その上、真北を目指す祈りが当時の民衆にあまりにももてはやされたため に、朝廷は「禁止令」を出すにいたる。延暦十五年(七九六)三月十九日、桓武天皇は次のように勅した。

 「北辰を祀ること(北極星に御灯を捧げて祈ること)に朝廷の禁制が出されて久しいが、取り締まりに当たるべき官司は侮り怠って取り締まっていない。今、京、畿内では役人も民も春秋の時期が来ると職務・家業を忘れて、北辰を祀る祭礼の場に集まり、男女入りまじり、清浄とは言い難い状態である。□(欠字未詳)これではかえって災いを招くことになってしまう。今後は特に禁断せよ。もし、止むを得ず北辰を祀る場合は人ごとに日を異にし、人が集合しないようにせよ。」(『日本後記』)

 桓武天皇が、長岡京の北辰、玄武に向けて千代に八千代に続く平安を祈った時に、この線上の地域に住んでいた秦氏一族は北を目指す祈りを目の当たりにして北辰信仰を熱狂的に支持したのではないだろうか。

 なぜそんなに北辰信仰が秦氏に支持されたかについては少し時代は下るが、いくつか証拠もある。

   延暦寺の開祖最澄は延暦二十三年(八〇四)入唐求法の前に豊前国香春神社に詣で、航海の安全を祈っている。帰国後の弘仁五年(八一四)にもここを訪れ神宮寺で法華経を講じている。ここは秦氏の氏神である鍛治神の聖地であり、秦氏が私宅仏教としてもたらした弥勒信仰の聖地でもあった。さらに、秦氏は航海に欠かせない宿星(しゅくしょう)術などの陰陽道の知識に習熟していたために、最澄が一目置いていたともいう。

 大津市の園城寺(三井寺)の本尊は秘仏の弥勒如来だが、この寺の守護神は「新羅明神」で北極星を神格化した「尊星(そんじょう)王」(星宿の神)を祀っている。

 秦氏の氏神、宇佐八幡宮でも北辰信仰を伝えている。村山修一氏は著書『日本陰陽道史話』の中で、宇佐八幡宮の北辰信仰を「朝鮮新羅の陰陽道を取り入れた呪術宗教の影響を受けて祀られた」とし、「北九州香春岳の鉱山を開発した新羅の鍛冶シャーマン辛島氏(秦氏系氏族)がもたらした信仰といわれている。京畿における北辰信仰の伝播は、この宇佐における新羅の民間陰陽道の流伝が起源となったもの」とされている。

 朝廷から禁止されればこの地で集団で祈ることもできず、千代に八千代に、と騒ぐこともできないわけだが、この勅をよく見れば、抜け穴がある。即ち、人が集合しないように祀れば構わない。完全に禁止ではないということは、細々とではあっても祈りが水面下で続いていくという事だ。千代のさざれ石・千代の古道という名前が残ったのもその表れかもしれない。

 平安時代中期以降ここはおそらく「西の鳴瀧」と認識されて祈雨の祈りが陰陽寮の官人達によって捧げられてきたはずだ。それは幾度となく、旱天が続く度に行われただろう。しかし、この祈りはあくまでも陰陽寮の仕事であって目的も違い、初回のような派手なものではなく、人々がこの地を忘れていく要因となったかもしれない。

岐阜伝承のさざれ石の話

 君ヶ畑の惟喬親王伝説。君ヶ畑はもとは小松畑という地名で、惟喬親王がいらっしゃったので「君ヶ 畑」と名前を変えたと伝わる。親王の家来が現在の岐阜県揖斐川町に木工用の木を見に来て、その地の石を見て詠んだのが君が代の歌詞であるという。しかし身分が低いから名前を取り上げてもらえず、古今和歌集では「よみ人しらず」となったのだ、と。しかし、のちに彼は歌の功績により「藤原朝臣石位左衛門」という名前を賜った、という。  古今和歌集におけるよみ人しらずの歌は本当に古すぎて、あるいは一般的すぎて作者がわからない場合が多い。身分が低いから名前を取り上げてもらえない、ということがあったかもしれないが、彼のそれは江戸時代に多い名前である。また、「朝臣」は八色の姓では真人に次ぐ上から二番目の姓。一介の木地師が歌を詠んでもらえるような姓ではない。  万葉集が編纂されて百年ほどの間、その手の歌集が編纂されることはなかった。この間に、千代に八千代に平安を願うこの歌詞は広く秦氏によって全国に広まっていき、めでたい歌詞ゆえにみんなに歌われたであろう。本当に広く知られすぎて、おおもとは誰が詠んだのかわからなかったのだろう。光孝天皇が僧正遍照の七十歳の祝いに送った歌、「斯しつつとにも斯にも長らへて君か八千代に逢ふ由もかな」から、仁和元年(八八五)の段階ですでに「千代に八千代に」という言い回しは一般化していたという。「君が八千代に」だけでは本来意味不明であって「君が八千代」と言っただけで君が代の歌詞を誰もが思い浮かべる状況にあったからこそ、この歌が存在する、とある。(『君が代の歴史』山田孝雄)

 新古今和歌集の七〇八「はつ春のはつ子のけふの玉箒てにとるからにゆらぐ玉の緒」という歌はよみ人しらずの歌だが、この歌は実際には万葉歌人として知られた大伴家持が天平宝字二年(七五八)に詠んだ歌である。それなのに、新古今和歌集でよみ人しらずになってとりあげられているわけは、これが「賀」の歌であり、養蚕のおまじないの歌、予祝の歌だからである。「賀」の歌が後の世になってから「よみ人知らず」として採録される例といえる。

 君が代の歌も、もし千代の古道や千代のさざれ石の祭祀の際に同時に歌われていたのだとすると、当然秦氏一族のネットワークで全国に広まっていっただろう。内容が「賀」の歌だけに、広まり方も早く予祝のおまじないとして口に出される。古今和歌集が採録される時点で一般的だったから、しかも長寿や平安を祈るとびっきりの「賀」の歌なので「よみ人しらず」になったのではないか。

 惟喬親王が十六才で都落ちしたのは貞観元年(八五九)のことらしいが、当然まだ未成年だった惟喬親王自身が行先を積極的に選んだわけではない。付き従ったという重臣、藤原実秀や堀川中納言は一体誰を頼っていったのか。それは、おそらく秦氏である。小松畑という地名だったというここにはもともと秦氏の集落があったに違いない。因みに惟喬親王は後に寛平九年(八九七)岩屋畑に居を移しているがここも「畑」の字がつき、現在の雲ケ畑にあたる。千代のさざれ石の真北の秦氏の集落も「梅ケ畑」。秦氏の集落には「はた」という地名が用いられることが多い。惟喬親王の父、文徳天皇の墓はさざれ石山の西隣にある。おそらく陵戸も秦の民が務めていたのではないだろうか。

 平安時代、貴族は素晴らしい歌を教養として学ばなければならなかった。歌論書も多く出され、歴史 や哲学、帝王学の記載とともに昔から伝わる歌をその当時としてはどのように読み解きどのように用いるのがいいのか記された。

 藤原俊成の著した歌論書『古来風体抄(こらいふうていしょう)』の一節には「古き歌をも今あることのそのことにかなひたる時は、詠じ出づることはあることにや。」とある。この時点で、状況が合えば古い歌をそのまま詠むことが普通に行われていたという証拠である。石位左衛門なる人物が詠んだとすれば、岐阜の石を見て、「本当に君が代の歌詞と同じだ。石同士がくっついて岩になっている!」と感じ、既に知っていた君が代の歌詞を口ずさんだということなのだろう。その歌と石の状況があまりにもぴったりしていたので、周りの皆がほめそやし、石位左衛門自身が詠んだかのように誤解されて広まったということなのではないか。

 惟喬親王が君ヶ畑に少しの間でも住んでいたことはその地の伝説によれば本当のことらしく、藤原姓の家臣も実在し付き従っていたようである。ただ、惟喬親王が轆轤の技術を発明し教えたというようなことが散見されるが、奈良時代以前から法隆寺の百万塔などにみられるように轆轤を利用した木製品があり、平安時代の親王が発明したわけではない。藤原姓で秦氏と姻戚関係のある人物は秦朝元の孫、藤原種継や、秦氏の妻を持つ藤原小黒麻呂らがいる。根本中堂初度供養の中心人物の一人、秦氏の護命も岐阜出身である。  全国に散らばっていった「小椋」姓の木地師の祖は惟喬親王に付き従って都からやってきた藤原実秀 だとの伝承があり、この人や惟喬親王が、秦氏や伊那部氏のネットワークや木工技術などを背景にしてここに辿り着いたのかもしれない。近くには藤原種継の子、仲成の隠棲地と伝承される西野尻もある(『秦氏の研究』大和岩雄)。木地師のような山仕事に携わる秦の民や伊那部の民にしてみれば逆に貴種流離譚で、自らの出自を惟喬親王に求めたということも十分ありうる話だろう。傍系のようなさざれ石伝説が台頭した形ではないだろうか。



★さざれ石のある入亀山への最寄のバス停は「山越中町」です。
★阪急嵐山駅からタクシーで7分、JR太秦駅からタクシーで5分(徒歩20分)。


京都市バスの時刻表

●26番(京都駅、四条烏丸、四条大宮、西院、大将軍、福王子、宇多野経由)
●10番(三条京阪、三条河原町、河原町丸太町、千本丸太町、北野白梅町、福王子、宇多野経由)
●11番(三条河原町、四条京阪、西院、太秦天神川、広隆寺前、角倉町、嵐山、嵯峨中学、太秦開日町経由)
●59番(三条京阪、三条河原町、河原町今出川、千本今出川、金閣寺道、竜安寺、福王子、宇多野経由)
●75番(京都駅、堀川七条、堀川五条、西院、西大路御池、太秦天神川駅経由)


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